ハツカネズミの恋

Lisp のもろもろ,おぼえがき

数学と自然科学

数学が自然科学かどうか,という問いはしばしば議論される.しばしば議論される,という事実が示しているように,その,しばしば行われる議論は,往々にして一意な結論(らしきもの)を提供しない.一意な結論を提供しない,ということばをここでは,命題化されていない,くらいの意味で使っているが,個人的な直感に照らしても,こうした議論に結論が出る日は来ない気がしている.

しかし,結論が出ない議論を不毛だと切り捨てるのも,それこそ不毛に思う.結論が出ないという文は,結論が出ない,という事実のみを表現していて,議論の過程や,留保されている議題の価値や意味とは直接の関係がない.雑に”結論が出ない”と言ってしまったけれど,これは要するに,結論が出そうにない,あるいは,出ないだろうな,という単なる個人的な予想,予感に過ぎない.同様に,以下に書く内容も,一個人の雑感の域を出ない.

数学は自然科学である,という主張には,率直にいって,僕はどうしても違和感がある.その違和感の正体は,おそらく,これもまったく個人的な感覚としての,自然観,および科学観に由来している.

自然とは何か.ここでいう自然とは,ふつう連想されるような自然環境,生態系,もっと卑近には,相対的に植物の密度が高い場所,という意味では,もちろんない.科学の対象としての自然,自然科学という語の部分としての自然だ.この文脈における自然という単語を適切に言い換えるのはとても難しいのだけど,強いて言えば,人間に考察可能な世界の部分,くらいになるかもしれない.

すごく雑な定義だが,ここでは,人間に考察可能な世界の部分を取り扱うのが自然科学だとしよう.僕が,数学は自然科学である,という主張に対して違和感を覚えるとき,脳みそに引っかかるのは,この辺りだ.数学をしていて,僕は,人間に考察可能な世界の部分,を取り扱っている気がしない.

厳密さに欠ける話を続ける.そしてその厳密さを少しでも補強するため,上の主張にことばを加える.つまり,数学をしていて,僕は,人間に考察可能な世界の部分,を”直接”取り扱っている気がしない.というのも,僕は数学をしているとき,ひたすらことばの問題について考えている.数学的表現の構成,その形式と意味の交わりだけを考えている.

これは,抽象的な思考をしている,というのとは違う.僕は決して賢い人間ではないので,抽象的な思考はかなり苦手だ.なんでも適切な例示ができないと腑に落ちた気になれないし,調べても具合のいい例が出てこなかったら,無理にでもひねりだす.ただ,そうこうしているときに脳みその中にある色々なものを”世界(の部分)”と呼ぶことに,僕は抵抗がある.

それらはナマの世界(の部分)ではなくて,あくまでも世界の表現なのではないか,という気がしてならない.ナマの世界と,世界の表現は異なる.そして,数学の対象は世界の表現である.という直観が,僕にはある.これは直観である以上,間違っているかもしれないし,そもそも何も言えていないかもしれない.もちろん,僕個人が表現としての世界だけを対象に数学をしている,という,とてもありえそうでつまらない事実が見え透いただけかもしれない.

数学の対象は考察可能な世界ではなく,考察可能な世界を考察するための表現なのではないか.数学の発展の歴史というのは,論理という一本槍で,人類がより豊かな表現力を獲得してきた軌跡なのではないか,と僕は思う.いかなる世界の部分をも説明しない,純粋に,単なる表現の塊でしかない,そんな部分が,数学にはたしかに存在する気がする.

そしてそんな数学は,果たして自然科学なのだろうか.ちょっと言い過ぎだと思う.もっと控えめに,形而上学とでも分類しておくのが,個人的には腑に落ちる.